本陣絵巻

~歴史に彩られた街~

本陣絵巻

 近世初頭、中国地方は毛利氏の支配下にあったが、関ヶ原の戦の責任で領土を取り上げられ周防(現・山口県東部)・長門(現・山口県西部、北部)に転封となる。代わって堀尾忠氏が領主として入国したことで松江藩が成立する。

 松江城は、秀吉の旧臣で家康に従った堀尾吉晴が慶長12(1607)年から着工、16(1611)年に完成させた城だが第三代忠晴に後継ぎがなく堀尾家は断絶、次に京極忠高が藩主となるが病死して京極家も一代で断絶。寛永15(1638)年に直政が藩主となり、明治維新まで松平氏の治世が続くこととなる。

 初代松江藩主 松平直政/マツダイラナオマサ

慶長6(1601)~寛文6(1666)

 結城秀康(ユウキヒデヤス)の三男として近江国伊香郡中河内(現・滋賀県伊香郡余呉町)で生まれたと伝えられる。結城秀康は徳川家康の次男で、秀吉の養子となり秀康と名乗る。その後秀吉の指示で下総結城(現・千葉県北部から茨城県の一部)の結城城を継いで結城姓を名乗った。 

 関ヶ原の戦以後、松平姓に戻し越前を治めた。母は三谷長基の娘で、秀吉の母長松院の侍女だったとも京都の遊女だったとも伝えられ、秀康の死後月照院と名乗った。

 幼名は河内麿。後に国丸と改め、慶長18(1613)年に出羽守直政と名乗る。翌年14歳で大坂冬の陣に初陣、大坂夏の陣でも活躍し家康より褒められる。

 松江に入城したのは37歳。藩祖として施政の基本方針を示し、緊急事態に応じられるよう軍役を定め職制を整備した。また信仰が篤く、故京極氏の後を引き継いで日御碕神社(島根県出雲市大社町日御碕)を完成させた。

 そして子供たちに信仰心を教え込むために、一緒によく参拝した。寛文6(1666)年に江戸藩邸で死去。66歳。生母月照院の霊碑を安置した月照寺(島根県松江市)に葬られる。この後月照寺は松平家の菩提所となる。

第二代松江藩主 松平綱隆/マツダイラツナタカ

寛永8(1631)~延宝3(1675)

 初代直政の長男として江戸で誕生。幼名は久松丸。四代将軍家綱(イエツナ)の一字を貰い綱隆と名乗る。寛文6(1666)年、直政の死去により36歳で家督を継ぐ。幕府の許可を得て弟近栄(チカヨシ)を広瀬藩主(広瀬/ヒロセ=現・能義郡広瀬町)に、末弟隆政(タカマサ)を母里藩主(母里/モリ=現・島根県能義郡伯太町)に任じる。延宝3(1675)年に急病のため松江で死去。45歳。月照寺(島根県松江市)に葬られる。

第三代松江藩主 松平綱近/マツダイラツナチカ

万治2(1659)~宝永6(1709)

 第二代綱隆の四男として江戸で誕生。幼名は萬助。四代将軍家綱(イエツナ)の一字を貰い綱周と名乗ったが、後に綱近と改める。延宝3(1675)年綱隆の死去により17歳で家督を継ぐ。この頃出雲地方では災害が続き、元禄元(1688)年の水害時には藩主自ら船で巡視し、被災者の救済にあたった。宝永元(1704)年、眼疾のため弟吉透(ヨシトオ)を養子にして後継ぎとし、自らは退隠する。宝永6(1709)年に松江で死去。51歳。月照寺(島根県松江市)に葬られる。

第四代松江藩主 松平吉透/マツダイラヨシトオ

寛文8(1668)~宝永2(1705)

 第二代綱隆の五男として松江で誕生。幼名は幸松丸。五代将軍綱吉(ツナヨシ)の一字を貰い吉透と名乗る。宝永元(1704)年に兄綱近の養子となり家督を継いだが、翌年江戸で死去。38歳。天徳寺に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。

第五代松江藩主 松平宣維/マツダイラノブズミ

元禄11(1698)~享保16(1731)

 四代吉透の次男として江戸で誕生。六代将軍家宣(イエノブ)の一字を貰い宣維と名乗る。宝永2(1705)年、父吉透の死去により8歳で家督を継ぐ。享保2(1717)年頃より外国船がしばしば日本海沿岸に出没し、幕府の命によりこれを撃退する。享保16(1731)年に江戸で死去。34歳。天徳寺に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。

第六代松江藩主 松平宗衍/マツダイラムネノブ

享保14(1729)~天明2(1782)

 五代宣維の長男として江戸で誕生。幼名は幸千代。八代将軍吉宗(ヨシムネ)の一字を貰い宗衍と名乗る。享保16(1731)年、父宣維の死去により3歳で家督を継ぐ。この時幕府は福井・明石・前橋の松平家一族に後見を命じた。この翌年に前代未聞の大飢饉、その後も災害が続いて藩財政が窮迫。延享4(1747)年に家老政治を廃止し藩主親政にのり出す。

 中老小田切備中尚足(オダギリビッチュウヒサタリ)を補佐役として財政を建て直そうとしたが失敗。その後幕府からの比叡山山門普請の助成命令が藩財政に決定的な打撃を与えた。そこで家老朝日丹波(アサヒタンバ)を仕置役として財政を建て直し、改革を進める。明和4(1767)年に財政窮乏の責任をとり退隠、治郷(ハルサト)に代を譲り、その後剃髪して南海と号した。天明2(1782)年に死去。54歳。天徳寺に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。

第七代松江藩主 松平治郷/マツダイラハルサト

寛延4(1751)~文政元(1818)

 六代宗衍の次男として江戸で誕生。幼名は鶴太郎。十代将軍家治(イエハル)の一字を貰い治好と称したが、兄の死去により世継ぎとなり治郷と改める。17歳で藩主となる。先代から引き継いで財政を建て直した一方、藩校を開き文教面にも尽力した。

 茶人大名としても有名。幼い頃から勇気盛んな治郷に心を痛めた傅役(教育係)や家老たちは、治郷が常道から外れないよう茶道や禅学に導いた。初めに三斎(サンサイ)流を、その後石州(セキシュウ)流を修め、やがてこれらの流派を融合させて石州流不昧(フマイ)派を起こす。

 また麻布天真寺巓和尚について禅学の修行をして生涯の支えとなった茶禅一味の境地を会得する。茶の湯に熱心になり過ぎ、家老らが諌めると「贅言(ムダゴト)」を著して反論、治国に通じることだと諭した。江戸別邸大崎園に茶室「独楽庵」を移築するなど、晩年は茶の湯三昧に過ごした。

 文化3(1806)年に退隠して斎恒(ナリツネ)に代を譲り、その後剃髪して不昧と号した。文政元(1818)年に江戸で死去。68歳。天龍寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。

第八代松江藩主 松平斎恒/マツダイラナリツネ

寛政3(1791)~文政5(1822)

 七代治郷の長男として江戸で誕生。幼名は鶴太郎。11代将軍家斎(イエナリ)の一字を貰い斎恒と名乗る。文化3(1806)年、父治郷の退隠により16歳で家督を継ぐ。茶礼を父より受け瓢庵月潭の号があり、書もよくした。文政5(1822)年に江戸で死去。32歳。天眞寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。

第九代松江藩主 松平斎貴/マツダイラナリタカ

文化12(1815)~文久3(1863)

 八代斎恒の長男として江戸で誕生。幼名は鶴太郎。11代将軍家斎(イエナリ)の一字を貰い斎貴と名乗る。文政5(1822)年、父斎恒の死去により8歳で家督を継ぐ。父の遺志を継ぎ「出雲板延喜式」を完成させ幕府に献上する。この時期松江藩に入りだした西洋の砲術・医術等に興味を示し、特に時計の収集家としては有名。

 一方で鷹狩や相撲も好み、雷電為右衛門(ライデンタメエモン)などの藩力士を抱えた。この状況を見かねた親戚から引退を迫られ、津山藩主松平斎孝(ナリタカ=第三代広瀬藩主松平近朝(チカトモ)の次男)の四男済三郎(=定安/サダヤス)を養子に迎え、娘と結婚させて代を譲り、その後剃髪して斉斎、瑤光翁と号した。

 藩主としての評判はよくなかったが、斎貴の西洋好みは松江藩の近代化の礎となった。文久3(1863)年に江戸で死去。49歳。天徳寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺(島根県松江市)に移葬された。
  ※広瀬藩=現・島根県能義郡広瀬町。 ※津山藩=現・岡山県北東部。

第十代松江藩主 松平定安/マツダイラサダヤス

天保6(1835)~明治15(1882)

 津山藩主松平斎孝(第三代広瀬藩主松平近朝の次男)の四男として誕生。幼名は済三郎。九代斉貴の養子となり直利と名乗ったが、後に13代将軍家定(イエサダ)の一字を貰い定安と改める。19歳で藩主となる。外国製軍艦購入など軍事面をはじめ、西洋化を進める。

 その一方で日本古来の文化を保存することも怠らなかった。慶応2(1866)年、第二次長州戦争で石見地方(=島根県西部)が戦場となり、松江藩も幕末の動乱に巻き込まれた。幕命により浜田(島根県浜田市)方面へ向けて出陣するが、浜田城落城の報を聞くと木佐家に布いていた陣営から帰城し敵襲に備えた。

 明治4(1871)年の廃藩置県により松平氏の治世が終わる。明治15(1882)年に北豊島郡で死去。48歳。天徳寺(東京都)に葬られ、東京護国神社に分骨された。  
 ※津山藩=現・岡山県北東部。  

 

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